グローバルでない社会の断面

 テクノロジーの進化がグローバルであるため、テクノロジーによる変化もグローバルになる。そういう考えから、テクノロジーによる変化の影響を、いろいろな社会の断面として捉えて書いてきた。ただよく観察していると、「いくらテクノロジーが進化しようと、社会の変化はグローバルではない」というケースが、思いのほかたくさん見えてきた。そんな広がりが限定的なケースのことを、少しだけ書いておきたい。  日本ではパチンコ屋が栄えていたが、平成7年の18,244店をピークに減少の一途をたどり、平成から令和になるころには 10,000店を割り込み、今では 9.000店を割り込んでしまった。最盛期には 500万台近くあったパチンコ台の数も、今では 250万台を割り込み、減少傾向は止まらない。それでも、平日の開店時に合わせてパチンコ屋の前に並ぶ人の列は相変わらず長く、パチンコ台の前に座る人の数は一向に減らないように見える。でもよく見ると、若い人がいない。若い人たちはネットカフェなどに入り、高性能な PC を前にして座り心地のよい椅子に座り、ゲームを楽しんでいる。コミックを読んだり、アニメを見たり、VR(バーチャルリアリティ;仮想現実)を楽しんでいたりもする。テクノロジーの進化によって、パチンコ屋はネットカフェに置き換わり、日本固有のパチンコの遺伝子はゲームの遺伝子に変異して受け継がれた。確かに見た目の感じは変わったけれど、日本の社会の本質は何も変わっていない。  パチンコがゲームに置き変わったというのは日本という国固有のことだが、国という枠を離れても、同じグループに属する人は、同じアプリに興味を示す。たとえばイスラム教徒は、イスラム教徒の多い国にいようと少ない国にいようと、イスラム教のアプリを使ってメッカの方角や礼拝の時間を知る。でも、そういったアプリがどう進化しようがどんな機能が追加されようが、イスラム教徒以外の人たちは何の興味も示さない。テクノロジーが進化し、宗教のプラクティスはずいぶん便利になった。でも、宗教の本質は何も変わらない。  本質が変わらなければ、社会に変化は起きない。グローバルではないことを寄せ集めても、何も見えてこない。